【拳聖かく語りき~型の解釈~】
【拳聖かく語りき】(拳友時報404号より引用)
□型の解釈
開祖曰く、
■半月の型は、筋肉を造り、骨格を鍛え、その動きは、相手の懐に入り込む、体捌き、足運びを学ぶのである。
よって、稽古にあたり、時には道場から外に出て、坂の上から下、また下から上へと稽古し、そして、足首までつかる砂地や泥田、膝までおおう藪の中でも、半月を行い、技を磨いて、落ち葉を踏んでも足音を消せるほどにならねばならない。
半月の動きは、前後左右に動くが、前面の敵に向かう時も、背後を意識することが大事である。
■南光の型は、半月より短く、半月の小の型である。
しかし、型は短くとも、俊敏さと、動作ひとつひとつの切れ味を造らなければならない。
また、この型は、斜めの動きが加わるなり。
■汪輯の型は、その立ち方に特徴がある。騎馬立ちである。
この姿は、馬上にいる姿と思えばよい。馬上においては、騎手はどっかり尻を据えず、橋先はしっかりと鐙(あぶみ)をとらえ、脚全体の内側で馬の胴を締め付ける。
これが騎乗の姿である。
されど、今日では騎乗の格好を見るのは、競馬か映画の中くらいのものであろう。
そこで、この騎馬立ちを体得するには、水苔に覆われ、水に濡れた岩場に立って行うとよい。足場の悪い、すべりやすい場所に立つと考えよ。
昔はわざと台風の時などを選んで、強風に向かって戸板をかざしつつ、訓練したものである。
■鎮東の型は、鶴が岩の上で舞うがごときその動きから、別名「岩鶴」ともいう。
この型、女性が演ずるか、また剣を手にして演ずれば、優美に映る型である。
しかし、もとよりこの型は舞踊ではなく、あくまで戦いの型であり、女性専用の型でもない。
もともとは、徒手空拳対棒術(槍術)の型として造られている。
なお、この型、その動きから、泥田のあぜ道の上にわが身をおくと考えよ。
さすれば、そのひとつひとつの動きが、理にかなっていることがわかるであろう。
「もっとも私がこう説けば、弟子たちはこぞってあぜ道へと繰り出すだろう。あぜ道を踏み崩せば、その苦情はこちらに来るから心せよ」と師は笑いながらに語られた。
■五十四歩の型は、弱者のために、一人の拳士が暴君の前に跪いて嘆願する動作より始まる。
この場に居合わせた暴君の家臣たちは、これを咎め、拳士に打ちかからんとする。
これを受け、さらに攻撃するを打ち払い、阿修羅のごとく戦い抜いてこれを制し、戦い終えれば、左手に矛を収め、右手は大いなる慈悲の心を表すなり。
■抜塞の型は、ひとりで敵陣に忍び込み、気力でこれを打ち破る型なり。
暗闇に乗じて進むも、相手の動きは見えぬ。だが、五官を研ぎ澄ましてひとたび敵の気配を読み取るや、一気呵成、勇猛果敢に戦い、打ち破るという型である。
演じるにあたっては、幾万の敵あれど我ゆかん、の気概を示せ。
なお、今まで述べたのは、解釈の一例に過ぎぬ。
型は生き物。戦いの状況により、千変万化すると知れ。
そして、稽古にあたっては、天の利、地の利を最大限に生かすことができるように、あらゆる場面、状況を考慮に入れ、修行に励むことが肝要である。