明鏡止水:めいきょうしすい
≪明鏡止水:めいきょうしすい≫
まずは、明鏡止水の意味から…
【意味】明鏡止水とは、邪念が無く、静かに落ち着いて澄みきった心の状態のたとえ。
【注釈】「明鏡」は、一点の曇りもない、よく映る鏡のことで、「けいめい」とも読む。
「止水」とは、流れずに静かにとどまって、澄んだ水面のこと。
曇りの無い鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境をいう。
『荘子・徳充符』にある「明鏡」と「止水」の二つの言葉を合わせてできた句。
「明鏡」は、甲徒嘉のことば「鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず、止まれば則ち明らかならざるなり(鏡がきちんと磨かれていれば塵は付かない、塵が付くのは鏡が曇っているからだ)」から。
「止水」は、孔子のことば「人は流水に鑑みることなくして、止水に鑑みる。唯止まるもののみ能く衆衆の止まらんとするものを止む(人は流水を鏡として使うことはなく、静止した水を鏡とする。ただ不動の心を得た者のみ、心の安らぎを求める者に対して、それを与えることができる)」から。
空手を修行するものが、型の稽古をする際に、欠くべからざる道具のひとつに「鏡」があります。
初心者から空手を何十年と修錬した達人に至るまで、鏡に映る自分の姿を通して、自己の修錬の度合いと、また足らざるところを手直しすることができるのが「鏡」です。
道場の「鏡」は、家庭にある単なる鏡とは、一線を画す特別な存在です。
個人的な経験ですが、空手の道場に通う生徒で、鏡にベタベタと手油を付けることに無関心な生徒は、空手の上達が遅いような気がします。
「明鏡止水」という言葉があります。
美しい鏡は、邪念が無く、静かに落ち着いて澄みきった心のようでる。
「明鏡」は、一点の曇りもない、よく映る鏡のこと。
「止水」は、流れずに静かにとどまって、澄んだ水面のこと。
好むと好まざるとに関わらず、道場の鏡を大切にできる人間は、「曇りの無い鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境」を、生まれながらにして習得しようとする心構えにある進取の気性のある方々と思います。